第一部
かめどんは、ひさかたぶりに甲羅の中から頭を出した。
かたくぶあつい甲羅は、外界の音も光も臭いも通しゃあしなかったのだから、かめどんには、いくつの朝と夜が過ぎて行ったもんか、てんで予想もつかなかった。
「ウントコショイ」
掛け声かけて、手足をグンと伸ばしてやろうと思ったが、ずいぶん長く縮こまっていたせいで、体はちいとも言うことを聞きやしない。
「オイコラショ」
もいちど、今度はかなり力んでみたけれど、はてさて手足はビクとも動かない。かめどんは、まだちょっと夢見心地だった頭をブルルンと振った。
「どうだろう……ぼくはと言えば、最後に目を開けたいんだけれどね……つまりだよ、全身をちょっと痛いくらいに伸ばしてさ、次に一気に筋肉を緩めるわけさ……その時こそ、ぼくはゆっくり目蓋をあけるって言う寸法でさ……」
誰に向かって説得しているんだか知らないが、かめどんはそう言って、相手の返事を待つかのように、首をクニッと傾けた。
「まあいいさ……ぼくはぜんぜんせっかちなたちじゃあないんでね。わかるかな?ぜんぜん気長と言うことだよ。まあ、かなぶんってやつはおおらかでないといらつくもんだけれどね。おっと、また仮名ばかりになっちまったカナ?……ふん、とにかくさ、もしもぼくが短気だったなら、まずはこんな悠長な話なんかしてないで、すぐさまこの二つの目をパッチリ開けてるさ。だいたいだよ、状況判断しようと思った瞬間に、呼んでもないのに出番を決めているのがお目めのやつさ。まあ、仕方ない…若いからね。一見は百聞にしかずって言うのがこいつの座右の銘なんだが、言わせて置くさと耳も笑っていたね。誰でも誇りは必要だから……まっ、そうやって譲ってやれるところが耳の大人らしいところではあるんだけれど……そりゃそうさ、いのちってやつに文明を開いた先人こそ耳だからね。めんめはそこんところをわかっちゃいない……だもんで、それが時にねんねと言われるゆえんでさ……フン、そうさ、もちろん、こんな話はどうでもいいさ。今は、目と耳の出世劇なんて話をどうこう言ってる場合じゃあない。ただ、つまりだよ、ぼくはまだ状況判断なんて必要をこれっぽっちも感じてないってことで、そんな心境に達するまでには、新月が太った三日月に成長するぐらいの時間の余裕があるって具合で、と言うことは、ぼくには焦らなきゃいけない理由がみじんもないって要領でさ……」
かめどんは、自分の話に自分で飽きたかのように、ファーフォーと大きなあくびをした。
なるほど、かめどんの言うとおり、さっきから頭上を往ったり来たりしていたお月さんはだんだん肉付きをよくしていたが、まだ太ったと呼ぶには、かなりの語弊があった。しかし、なにしろかめどんの一言はほとんど一日がかりだったから、ここまでだけでも地球はすでに二回転半していたし、お月さんもやせ気味の三日月くらいにはなっていた。
「考えたよ……そうさ、ぼくは、ずっと考えてきた。考えすぎて、たまに心と体と脳みそがバラバラになっちまったこともあったさ……まあ、だいたい、こいつらすべてを司ってるもの自体がなにかっていう問題になるんだがね……つまり、ぼくは一体誰かってことなんだ」
お月さんは去ろうとした足をちいと止めて、かめどんのひとりごちに耳を澄ました。東の空では明日が足踏みをし、真っ赤な顔を煮えたぎらせた。
「そうさ、こうやってぼくと名乗るぼくは一体全体どこの誰かっていう話さ……ふん。ぼくの目、ぼくの耳、ぼくの手、ぼくの足、ぼくの頭、ぼくの心……じゃあ、その全所有者たるぼくは、どこにどう存在しているのかって、ぼくは考え続けてきたわけなんだよ。しかし誰でもわかるように、ここでもう、ぼくはまた二つに分離してしまってるわけさ。……ぼくと、ぼくを考えているボクって感じにね。そして、そのボクを語っているのがこの僕ってやつさ。そう、そうやって、最初のぼくはどんどん、どんどん遠のいちゃってさ、丁度右巻きと左巻きの渦を合わせたみたいに、出口のない迷路をぐるぐる、ぐるぐる回わり続けたわけさ。ふん……、いったいゼンタイその間に、どれくらいの年月が過ぎてったもんだろう……な?お月さん」
名指しされた月は驚いて飛び上がり、色あせた藍色のマントをひるがえして逃げ去った。そしてお日さまと言えば、あんまり勢いよく引っ張られたもので、つんのべるみたいに空の真ん中に転がって、朝焼けなんだか、夕焼けなんだかわからない、だいだい色の昼間をこしらえてしまった。かめどんは知らないことだったけれど、これには世の中大童となり、時計や計算式、自律や法則と言った類いのものが、麻痺、破壊の大打撃を食らった。もちろん、そんなことはかめどんの計らいでもないし、責任でもなんでもなかったけれど、彼の独り言がなかったなら、何も始まっていないはずの出来事ではあった。
「実は……そう、実に簡単なトリックだったのさ」
かめどんは、してやったりの声で言った。
「ぼくが誰かって話はね……こうさ、つまりぼくが問いかけるボクなんて存在しない。ましてそれを見たり語ったりする僕なんて居やしない。そうだろう?ぼくが居るってことは、同時にあなたが居るってことで、あなたの存在のために、ぼくが出来ちゃったって話で、ぼくが自主的にぼくを名乗るなんてことは有り得ない。要するに、この場合正しくは『あなたは誰ですか』って質問であるべきで、なんてことはない、解いてしまえばまったく簡単な知恵の輪だったのさ……フン」
だんだん頭も冴えてきて、弁舌も滑らかになってきた。いや、少々滑りすぎと言うべきか。ふだんは、全身、末端まで新鮮な血をめぐらしてから、はじめてスイッチを入れる脳みそだったけれども、今日は手足が伸びないんだからあ、しかたがない。不本意ではあったけど、思い出と考え事に心血そそぐかめどんであった。
それにしても、大変なのはお日さまである。一時にして、数え切れない大量の太陽信仰が生まれ、みんながこちらを仰いで、わあわあ、ぎゃあぎゃあ、やんや、さめざめ、いろんなことを叫び出したのだ。こりゃたまらんと、お日さまは早く西に向かおうとして焦ったが、そんなところに出て行ったら自分は悪魔と呼ばれて何をされるかわかったもんじゃあない、と月が裏の空でごねて、座りこみを決めてしまったから、はーてさて、ほんとうに困った。
「まったく、まったくもって、問題解明に伴う快感ってやつほど気持ちのいいものはないね。わざと難儀にしてその至福を高めようなんていう悪趣味はないがあね、対象や仕組みが複雑になるってことは、これ、いたって自然な摂理でさ、数えたことないから実際どうだか知らないけれど、まあ、ぼくの年も相当重ねられたって証拠だよ。ふん………。だいたい、ぼくの中にどれだけの絵と音と香と味と心地とさ、その他雑多、いかほどの記憶が蓄積されているかなんて本人にも想像つかないさ。たぶん、あたり鉄砲した数の100000000000倍は下らないだろうよ。ふん、カンマなんかより便利な道具があるよ。千億ってすれば、互いに一番省エネってもんさ。そうさ……つまりだよ、何が言いたいかって言うとだよ、100000000000と見て解読する速度と、千億と目にして理解する速度が大きく異なるほど、年増の証拠という話でさ。いや、違う、そんなことを言いたかったんじゃあない……『ぼく』にまつわるナゾナゾは、100000000000に値するもんで、答えは、千億と書くくらいシンプルな話ってこと……いやいや、そういうことではなく、いいえ、それらもまた真理ではあるんだけれど、ぼくが言いたかったのは……ぼくが言いたかったのは……」
かめどんは、記憶箱をかきまわすように頭をぐるぐる回したが、すでに七行以上前の記憶は整理分類、きれいに片付けられてしまった様子で、引き出すには、検索のためのキーワードと、警備上のパスワードの両方が必要なようだった。かわりにこちらで少し補足を入れると、かめどんはまさにある摂理大悟に言及しようとしたわけで、それをわかりやすく説明しようということが、即理に逆らうことになってしまったという次第である。
「ときに……思索というのは、相手がいないと出来ない代物だって知っていたかい?」
第二部
そもそもかめどんの独りごちは、手も足も出やしない……という、窮境のため息が始まりのはずだった。なのにかめどん、そんなことはとんと忘れてしまったみたいに、けっこう楽しんでいるごようすだ。
そうそう、忘れちゃいけない。地上で起こっている天変騒動の話だけれども、相手がお日さまとなったら、だあれも具合を診てくることなどできやしない。
されどものごと、対象ばかりでなく、その陰を観察することもたしかに重要。科学文明はその誇りにかけ、世論が占いと魔術で持ちきりの中、月面調査ロケットを打ち上げたというわけだ。いやはや、本来は真っ先に自身の地球のことを疑ぐって、ちゃんと転回しているかを確かめるのが順番というものだろうけど、そんな当然のことは誰かが既に終えているもんだと合点して、誰一人信じて疑わなかったのだから、しようがない。
さあさ、たいへん。冗談じゃない!とお月さま、西へ、西へと一目散だ。同時にお月さまが叫ぶことには、世界遺産の認定がおりるまで、調査だろうとどこのお人だろうと、無闇に足跡をつけられるのはお断り、ってお話。
かたわら、お日さまはようやく、地球にひっかけていた夕焼けのすそに気づいてそれをはらい、ぶじ西方へ沈むことができたからよかったのだけれど、そうやってホッとしたのも束の間のこと……だって、月へ往くはずの宇宙船が、なぜかこちらへ向かってくるんだもの……真っ青だ。もしも、その時、お月さまが軌道をひと引きしてくれなかったなら、今ごろ宇宙船をグリルしちゃっていたところであった。
「はてさてヨ、さてまてナ、うんむ……なんて、呼んだものだろう。ふんむ……やっぱり敬愛をこめて、きみと言うのがいいだろうな。そうさ、きみさ、きみのことさ……ぼくを創らしめ、ぼくに語らせる、ぼくの対にいるきみのことさ。ふん、二人称ってやっこは、どうにもマクロファジーな輩(やから)だからね。マクロファージじゃないよ、マクロファジー。まあ、ソシャクの部分はおんなじと言えるかもしれんがね……もちろん、ぼくの造語だけどもさ、いいかい、大体だよ、自分以外のものは、全部『きみ』なわけでさ、きみ、きみ、って呼んで、みーんな振り向いてしまったら、こんどはこう云う風に言うわけで、キミじゃない、キミでもない、キミもきみなんだけど、キミでないきみを、今きみと呼んでいるところなんだ……てな具合で、まったくもって、どんな大勢を相手にしたって、たったひとりにしか通じなければ、理解もできない言葉でさ、もっとも本人がなかなか気付けない場合もあるけれど、なぜか本人だけは自分こそが「きみ」だと知ることができるわけでさ、実に超越知性のなす技……世の中に、これ以上完璧な暗号はないってわけさ。つまりだよ、ぼくはだね、今、すべての中のたったひとりのきみに、話をしているってことなのさ」
かめどんはそこで言葉を切ると、チュウインガムでも噛んでるみたいに、くちゃくちゃと口を動かした。
「……ふん、さあてはて、少々唐突だけど、ここできみに訊きたいことがある……どうだろう、きみは孤独ってやつを知っているかね?もし知っていたら、是非ともご教授願いたいところなんだが……。この世で孤独でないものはだれもいないと言うけれど、そりゃそうさ、孤児にならない子供はいないし、独り身にならない雌雄もまたいない。けれどもだよ、孤独の身が必ずしもさびしいとは限らないように、さびしさは決して孤独のせいだけではないし、言ってみれば、孤独は自立との引き換えで、また個性のための条件で、これを逆さに考えて行ったなら、どうして完全な孤独を獲得できると言うんだろう」
かめどんは、こころなしか悲しそうに、語尾を弱めた。
「……ぼくはだよ、孤独を訪ねるたびに、愛ばかりに出会ってしまうんだ。ひょっとしたら、孤独を深めることと、愛を深めることは同義なんではないかとさえ思ったよ。いや、こうも言うことができる。愛を求めることと、孤独を求めることは同等なんだってね。そうさ、いたずらにもだよ、一度愛ってヤツを探してみてごらん。決まって、孤独ばかりに出会う破目になるだろうよ。もちろん逆でもいい。なんなら孤独ってもんを追求してみたまえ。行けども、行けども、あるのは愛ばかりってもんさ」
目的地に辿り着けないと言えば、月面調査ロケットもおんなじで、バツが悪そうに苦笑いするお日さまとご対面である。有り得ないことは、総じて有り得るということを、本当は誰よりよく知っているのが科学者というものだったけど、しばらくは狐につままれたみたいに、ポカンとお口をあいたまま。
「……さあてね、だいたい「孤独」も「愛」もふたつとも、こんな難しい字を書かなくちゃならないくらいだ、はじめっから、相当複雑な意味のために作られた用語なんだろうけれど、だけどもさ、なにもかも、一体全体、これに集約されたり結論されたり証明されたりと、そんなに使い勝手の良い言葉なんだったら、こどもにも解るくらいもっとシンプルな語彙であって然るべきだと思わないかい?……ふん、別に同意を求めたりなんかしてないさ。ただね、この辺で、そろそろきみの意見を拝聴したいところだと思っているわけさ。まずはだよ、きみがぼくの愛を感じてくれているのかどうか……」
静かな、静かな、夜更けであった。世のものものは、みな騒ぎ疲れたのか、あるいは夜闇にすっかり安心したごとくに、深い眠りへ落ちていた。
そうなると、勝手な話で、急にさびしくなったお月さま。今夜はたいそう優美な三日月姿で、雲霞もなき澄んだ漆黒に浮かんでいたことだったし、ここはひとつ、だれかに一曲セレナーデを歌わせたいなという気分になった。ホント、調子がよいったらありゃしない。しかし、とは言うものの、探せど見渡せど、今夜その願いをかなえてくれそうなのはかめどんくらいで、お月さまったら懲りずまに、またもやその独りごちに、じっと耳を傾けてしまうのである。
「そうなんだ。独白なんてものは存在しない。自己愛なんてものが純化のしようがないようにね。……ぼくはきみのため、きみはぼくのため、そのためだけにぼくらは生きるのさ」
第三部
しくり、しくり……。
これは、お月さまの泣く声だ。しくり、しくり、シクシクシクシク……。だから言わんこっちゃない。かめどんのセレナーデに聞き入ってしまったせいで、せっかくの星空も、宵時雨になっちゃった。
されどもお月さんの涙には、もひとつ、実は大きなわけがあった。
惜しんだりした瞬間に、時計の針はにわかに急いで回り出す。明けの刻は、もうすぐそこまで来ていた。そして今日、かめどんは、とうとうその目を開らくことになる。一文字に口を結び、黙り込んだかめどんの顔に、時の成熟と強い決意が見てとれた。普段は、気まま、腹のまま、お好きなリズムで往ったり来たりしていたお月さまだったけど、今度ばかりは寸分も、微塵も狂わすわけにはゆかなかった。誰でもそうだけれども、知ることと引き替えにしたのは、責任ある行だったから……。
お月さん、一生懸命声をころして泣いていたけれど、嬉しいんだか、悲しいんだか、だんだん、だんだん、自分がどうして泣いているんだかわからなくなってきちゃって、それでもどんどん、どんどん、溢れてくる涙が不思議でたまらないのが、また泣けてきて、そうして静かな、優しい雨は、ずいぶん長く、暁まで、このみどりの星とかめどんの上に降り注がれた。
その頃、とりあえず軍事衛星まで辿り着き、ようやく進路を故郷にセットし直すことができた月面調査隊
は、自信喪失と疲労で半開きの目を窓外へ向けた。無辺の闇の中に、地球が、碧色の半月みたいに輝いていた。
どんな悪魔だって、この美しさを目にした途端、力が抜け、ただウットリ佇んでしまうに違いない。煮えたぎるお日さまの紅炎だって、この無邪気な星を傷つけるくらいだったら、迷わず自滅の方を選ぶだろう。なぜか、隊員たちは一同にそう確信できた。それほどに、地球はあらゆるなによりも、美しかった。そして、もちろんお日さまも、まったくの同意見であった。
その証を示そうとするかのように、地球の上を、みるみると朝が広がって行き、満面に煌く光を湛え始めた。そしてまるで故郷への帰路を導くみたいに、長く、大きな虹が架かり、雨上がりの朝のかおりが、遥か宇宙のロケットの中にまで広がった。
スー ヴァハー、スー ヴァハー、……。
おやっと、かめどん、大きな鼾をかきはじめたのかと思えば、いえいえ、それは深呼吸の音で、水素がちょっと重たげの風を、たーっぷり胸へ吸い込んでいる最中である。
「フーーム」
体内の空気を残らず出しきるみたいにすると、かめどんは、ゆーっくり、ゆうつくり、重たい目蓋を開き始めた。
紙の厚みにも満たないわずかな裂目があいた途端、とてつもない光の束があふれ込んだ。かめどんは思わず息を呑み、あるんだかないんだかわからない歯を食いしばった。
それは、それは、剣のように鋭く強い光で、ややもすれば怖気づき、弱気となり、せっかく開けかけた目をつぶってしまうか、あるいはあせって開いて、瞳を焼きつぶされてしまいそうであった。
かめどんは、硬い甲羅をさらにかたーく、かたくした。
――闇が目をつぶすことはないが、光は時にその目をつぶす。
しかし闇が目をあけることはなく、光だけがこの目をひらくのだ。
かめどんは、まるで自身に言い聞かせるようにそう唱えた。
赤と青と緑の光は、完全なひとつと交じり合い、かめどんには、純白のほかに何も見ることができなかった。かめどんは、焦点を合わさないよう、額に力を入れ、また一切の思考をはさまぬように、ただ在ることに集中した。光は、鋭く、深く、体の中心を貫いて行ったが、やがてそれはまるで暖炉にくべたツララの棒のように、腹部に至る先々から透きとおり、溶け、瑞々しき光のしずくとなり、体内を放射状に広がり出した。かめどんは、ふんばった。鉄の水門が少しずつ引き上げられるように、かめどんの目蓋は開かれて行った。流れ入る光は徐々に勢いを鎮め、穏やかなせせらぎのようになって、かめどんの中へ注がれた。かめどんは、みつめた。光の粒子は、やがて色とりどりの星のきらめきに判別することができるようになった。星々のねがいや、あそび、いのりや、ゆめが、像を結び始めた。
そして、かめどんの目は、見開かられた。
それはそれは、大きな、まんまるの、きれいなオリーブ色のお目めだった。
「ファー フォー」
仕切り直しの大欠(あくび)、だ。
「ふーンむ……なるほど、これじゃあ、手も足も出ないってわけさ。こうなっちゃあ、欠伸(あくび)しようなんて言うのはどだいムリな願いでさ、せいぜい欠(あくび)ができるのがいいトコさ。……それより、気になることには……ねえ、お日さま、ずいぶん近くに寄り過ぎていやしないかね?これじゃあ、あんまりに眩しくって、他の星が見えにくいったらありゃしない。それにだよ、こちとらチョイと〆っぱなしの目だったもので、余計にキツく、ヒリヒリするところでさ、ここはひとつ、サングラスってもんを用意しないとならないね……」
お日さまは、かめどんがサングラスというなまえを知っていることに驚いた。
「ハハん、バカにしちゃいけないよ。サングラスぐらいはご存知知さ。残念ながら、耳には蓋のしようがないからね。起きていようが寝ていようが、良いことだろうがなかろうが、入ってきちゃうものは、いかなる知識でも防ぎようがないっていうもんさ。まさに、これこそ耳年増ってやつだろうがね・・・・・・フン、そうさ・・・・・・年増といえば、ぼくはハテサテどのくらい年を重ねたもんか・・・・・・まあ、とにかくも、だ・・・・・星と話をするっていうのはかなり根気がいるってもんで、加えて相当、気丈気長でなくっちゃあならないもんでね。一体全体、光通信たって、星から返事が届くまで億千年とかかるんだもの、そりゃあぼくだって、化石くらいになっちまうってもんだろうよ」
ナルホド、かめどんが手も足も出せないというわけで、昔むかし、待ち呆けの居眠りをはじめてから長い長い暦を経て、天変地変に身を委ねるままに、かめどんの甲羅は今やすっかり石と化してしまったのだった。たしか、それは大海原の真ん中で、水面に映る満月の中にプッカと浮かびながら、なんの気なしに、星とおしゃべりをはじめたところからのお話だったんだけれども、さーてはて、今じゃあ、360度ぐるりと頭を回せたところで、海なんてかけらも見つけられない地平の上だ。
「しかしだよ、とにもかくにも、待っただけの甲斐はあったってもんじゃないのかね?津々浦々と、これからとっくり見せてもらうとするよ・・・・・・けれどもさ、さすが光通信というだけあって、星の返事のその容量たるや、まったく桁外れなわけでさ、ぜんぶに目を通し終えるまで、これまた一体全体どのくらいかかるんだか知れたもんじゃあない。ま、幸い、ぼくはぜんぜんせっかちなたちじゃあないんでね。のんびりやるつもりでいるがあね・・・・・とは言え、だ、よ・・・・・のん気の気にもかかることと言えば、お日さまさ、そろそろ落日の頃合じゃあないのかね?」
傾くも忘れて聞き入っていたお日さま。我に帰って辺りを見渡せば、待ちきれない様子のお月さまが、おしろいを叩きすぎたような真っ白い顔で、すでに東方の空に昇っている。
「正確を与える規則や法則ってのも、すべては日進月歩の可変事に違いはないけどね。・・・・・頃合、具合、折合ってもんは、いつでもどこでも不変の理(ことわり)でさ、実に今は、お日さまが最も美しくなる頃合ってやつでさあ、せっかくお目めを開けたんだもの、どうだろう……ひさかたぶりに、あの気高い暮れ姿を見せてくれやしないかね?……ふんむ、まだ光明の足らぬところがあるって顔つきだ。まったく、知性ってやつは、明るさを求めてやまないもんだね」
日の光が、石の体を覆うみどりのビロードのような苔の上を撫でてゆくようすを感じながら、かめどんは優しくほほえんだ。
「つまり、化石になってしまったぼくが、どうして見たり聞いたり話したりすることができるのかって言いたいのだろう?・・・・・それはだね・・・・・果たして、ぼくの頭は本当に甲羅から出せていたのかって話に戻るのと同等でさ、残念ながらぼくは自分の目で自分の顔を見ることができないのだもの、そりゃあきみの視力に頼るしかないさ。そうだろう?それはきみだけが知ってることさ。何度も言うが、きみがいなけりゃ、ぼくは在り得ない。きみが知らないと言えば、それきりさ。たとえば、星がきみを求めなかったなら、きみは存在していないようにね。・・・・・きみが求めるかぎり、そう、きみが求めている限り、ぼくは生きつづけてるのさ」
(完)